本のレビュー9③【人間の建設】岡潔・小林秀雄

数学と詩の相似

ここは物理学と数学が関係しているせいか話は深いがとてもわかりやすかった。まず小林が岡に対し、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、今の学者は確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人が稀なのです。そういうことをしている人は本当に少ないのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね。その人の確信が表れていないような文章は面白くないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。

まあトップレベルの数学者と他の学者を比べるとおかしいとは思うが。ここはおそらく岡も小林にも共通している世界で起こっている知力低下への問題意識が根底にあると思う。つまり学説や解説を書くことは学者の仕事としては一部のことでそれしか言えないということが知力低下という意味だろうと考えた。例えば登山家がエベレストなどに登山成功して、道具は何を使った、気温は何度だったとか、ルートはどこを使ったかなどだけをまとめるようなもので、例えば山に登るうえでどういう精神的な準備をしたか、登山の途中でどういうことを考えたか?、また山を登るとはどういう意味を持つのか?総合的に知情意の興奮が言葉として表現されていないと意味がないだろう。その経験から何を確信したか、確信したことを書いてある文章がたくさん文章を読んできた小林には響くということだろうか。その人にしか確信できなかったこととかを垣間見れると確かに響くのかもしれない。

ここには大変重要なヒントが込められていると思っていて、私のような物理学者でも確信から論文になる。いくら良いデータがそろっていても確信がなければ文章は書けない。一体このデータと過去の研究から総合して一体なにがわかったか?ということが確信していないと論文は書けない。一方ででそれがハッキリしている場合は書けると思う。少なくとも書きやすい。ショーペンハウエルも『読書について』で言ったようにその確信があって文章を書けるというのが第一級だ。おそらく研究者は自分の全部の書いた論文でこの部分が確信で書いたものだということは当てられるだろう。一方でショーペンハウエルの言う第一級には当てはまらないが書きながら考えるということもある。書きながら少しづつ考えて確信につながる場合もある。前者が第一級であることだろうが明らかに私は第一級ではないと思う。おそらくそういう人が大半なのではなかろうか?現実的にはこれら二つの論文は多くの人では混ざっているだろう。

この章の後半では数学について岡が続けて説明しているが、納得できるほど理解できなかったがおそらくこれまでの文章も含めておそらく数学者は詩人の様に全く何もないところから形も何もないところから形にしていく。物理学者の様に現実を説明するために数学的概念や理論を使うということがない。そもそも物理学者は自然が存在するという仮定があるが、数学にはそれに相当するものがない。全く何もないところから形を作っていく。なので数学者は生涯を通して研究していく中で自分のなかに数学史と数学体系というものがあるが、物理学者にはそれがないのだろうと。

はじめに言葉

ここの章では西洋哲学側からみるとカント哲学的理性の働きをかいていると思っていて数学でも行き詰まりと解決の繰り返しがあることを言っていて問題が解けた後に新たな問題が出てくるとか行き詰まることでその中心的な問題がとけなければ次に進めないということがあるが、基本的には後戻りはないということだ。まさに理性の働きの別の見方だと思った。

その後は教育の話になっていて教師の給与が安いことが書いてあり。まさに現代でも全くそうなっている。日本というものは全く変わっていないのだろうな。

また面白かったのは、岡という天才数学者がいうには方程式が最初に浮かぶことは決してありません。方程式を立てておくと、頭がそのように動いて言葉が出ていくるのではありません。ところどころ文字を使うように方程式を使うだけです。というのは面白かった。物理でも結局そうなんだ。結局言葉があってそれを表現する方法として数学を使っているに過ぎないのかもしれない。

近代数学と情緒

ここは数学の話になっていて岡が多くを説明しているが数学のことはわからないでも岡がもっている数学者として数学のマップと歴史感みたいなものがあってそれを元に話しているような感じがある。数学は大きく分けて幾何学、代数学、解析学があって岡は解析学だと。解析学で主体になっているものは関数で、19世紀になって複素数というものがよくわかってきて急激に伸びだしたという。よくよく考えると今まで学んできたこともこういった数学の準備をたどってきたようなものなのでこういった大きな流れを知って勉強ができたならよかったのになと思うが、今からでも遅くないのかもしれない。。ちゃんと大きな流れで物理に向き合っているのだろうか?私は。。。

記憶がよみがえる

記憶について二人で語っているが難しかった。我々が記憶として持っている記憶以上に原始時代から原体験としてつないできた記憶があるのかもしれない。結局人はそこに立ち返ることになるのだろうか?

批評の極意

ここで小林がプラトンが好きだというところから話が始まって、小林が好きな理由は、大変簡単なことでして。あれ、哲学の専門書じゃないからです。専門用語なんてひとつもありません。定義を知らないものにはわからないという不便が無いからです。こちらが頭をハッキリと保って、あの人の言うなりになってれば、予備知識なしに、物事をとことんまで考えさせてくれるからです。

いままで食わず嫌いだったが読んでみようと思った。単純に。

そこから会話は日本人について人ある。神風について言及し、あれができる民族でなければ世界の滅亡を防ぎとめることはできないとまで思うのです。と岡が言う。現代人の日本人としてはちょっと危険な思想かなと思ってしまう。時代がちがうのだろうか?表面的には欧米人と日本人の考え方の違いが議論されてあってこの本のテーマでもある個人主義とか小我についてとらえ方違いが述べられているが今は彼らのような考え方をすると少し差別的な気もした。日本人として欧米人に比べて小我にこだわっていないかといわれたら正直難しい。日本人にしかできないアートや小説、音楽などそして日本人にしかわからないそれらというものがあるのだろうか?宗教観や哲学などこれまでも話も総合して我々日本人は何を見ていて原点に戻るそしたらどうなるのか?西洋的な考え方以前の我々日本人に固有な考え方などはどういったものだったのだろうか?今どう残っているのだろうか。じわじわと効いている。これはよくありがちな議論に行きつきがちだが考えてもみようと思う。物理の場合は日本人らしい研究っていうのはあるかもしれない。

素読教育の必要

素読というのは江戸時代の学習方法の一つらしいが、朝早く先生のもとに集まり意味の解釈を加えず文字を大きな声で読み上げるという。

現在で言うと輪講と音読の会みたいだろうか?ただ解釈はしないらしいから音読の会かな。昔は四書をやっていたみたいだが今は本が多すぎて何をやっていいのかもわからないが。今でも専門書でも全く関係のない読書会でも勉強会をする機会が減ってしまった。大学の先生だと教えながらこういったことを図らずともやっているのかもしれない。こうやってブログを書いているのは少しでも本から学ぶものをよりよく整理し自分の言葉に直すことによって脳に定着させたいという意味でやっているがやっている感じだと少しは意味があるのかもしれないと思う。学習できる環境というものは本当に大事だなとも思った。SNSやメタバースまである現代では少し形が異なるかもしれないがここに書いてることを参考に自分も学び続ける環境を作っていきたいと思う。

ここまでで本編は終わり。かなり考えさせられる本であった。こうやって書きながら読むことで少しは深く読めたがそれでもまたざっくりと読んでみたいという感覚もあるし、何度も深く掘り下げていきたいなと思っているところもある。正直僕の感覚だと小林秀雄が言っているところの方が難しく、岡潔が言っているところの方が理解できた気がする。理系なので仕方がないのかもしれないが小林が私にはまったく見えていないものが見えているのだろうと想像しておくことは大事なことだと思っていて。僕自身が行っている考え方で見えないこと想像できないことがあってもそれが存在しないという意味ではない。他の人が意味を見つけている可能性があるというのは常に意識として持っておきたいと思った。さてさてこれからもたくさん勉強していきたいと思わせてくれる本だった。。