日本刀科学通信はクラウドファンディングのリターンの一つなので全部公開はできませんが、私が書いている部分の一部ここに載せさせてもらいます。ご興味がある方はご一読下さい!我々が測定用に選んだ2本の日本刀についてです。沖縄に深い関係のある日本刀を選ばせてもらいました。
以下、その一部。
今回の目的である日本刀の技術を保存する新しい方法を開拓するために我々は非破壊中性子トモグラフィーおよびブラッグエッジ透過法を用います。この方法を使えば日本刀の刃の部分のマクロなひび割れや錆の分部からミクロな結晶構造の違いまで見分けることができます。この部分は製造工程によって影響があると考えられています。日本刀の内部構造を調べていくことで文献情報に加えて新たな知見を加えていけるように測定を行っていく予定です。今回我々は沖縄県立博物館・美術館(以下、博物館)のコレクションから沖縄県に関係の深い2本の日本刀をお借りして測定する予定になっています。
1本目は沖縄県の宇久田家に代々継承されている日本刀です。博物館の紀要(Bull. Mus., Okinawa Pref. Mus. Art Mus.),№ 14, pp. 117-132. 2021 「南風原町新川の宇久田家御拝領墓に関する調査報告」に元県職員である松川満氏から博物館の萩尾俊章氏へ2019(令和元)年7月25日に依頼された時の様子が記録されており、日本刀はその中に記述が出てきています。日本刀は宇久田家の墓室に納められていたもののようで、宇久田家には「家譜」一冊と刀一振が代々 継承されていると報告されています。
太平洋戦争の戦前、宇久田家14世の全佑氏は6男3女を設けたようで、次男・三男・五男は早逝であったとされています。うち長男(全昌氏)は大阪に、四男(全達氏)は豊見城に住み、6男と父(全廣氏)は首里寒川町に住んでいたとされ、全祐氏は宇久田家が継承してきたこれらの家宝を3 名に分与しています。全昌氏には「家譜」と刀、全達氏には銅鏡、全廣氏には横笛を与えたことになっています。
しかし、その後沖縄では沖縄戦という地上戦が行われます。全達氏が継承した銅鏡は沖縄戦の戦乱により散逸してしまいました。また全廣氏は学校の教員として北部の山原に赴任し、名護の真喜屋に家 を建てて住み、自宅で受け継いだ横笛を保管していました。沖縄戦が始まるやいなや持てるものを持って避難のため山へと逃げるものの、戦争が終わって真喜屋に戻った際には 家は全焼し何も残っておらず、横笛も一緒に焼けしまったといわれていす。
沖縄戦の戦災により銅鏡や横笛は亡失してしまいましたが、幸いにも「家譜」と刀は沖縄戦の前に大阪に移されたことで戦災を免れました。戦後は、 大阪在住の長男である十六世の宇久田弘道氏に保管されていました。その「家譜」と刀については、宇久田家のご厚意により令和元年度に博物館へと寄贈されたものです。
もう一本の刀は博物館に保管されている源河ウェーキが所有していたとされる日本刀になります。源河ウェーキとは名護市源河にある古い屋敷跡がある富豪のことをさします。ウェーキとは土地や財産を多く持っている富豪のことを意味します。現在、源河ウェーキは名護市指定の有形文化財の建造物として管理されています。博物館に保存されている日本刀は名護市源河に近世末期ごろに成立した富農の一人である源河ウェーキが国王から拝領した刀剣として伝わっています。源河ウェーキ自体は系譜が残っておらず、その成立は明らかになっておりません。一方で19世紀の始めには現在屋敷跡がある高台に屋敷を構えていたと言われています。屋敷自体は数十年間の間人が住んでいません。
両刀とも無銘の刀であり、その時代には沖縄には日本刀の刀鍛冶がいなかったと言われているため、日本刀は日本列島のどこからか持ち込まれたものだと考えられます。現在は九州地方から持ち込まれたものだと言われているが今のところその証拠はありません。今回の実験ではこの刀の詳細を明らかにすることを目的としています。
以上です。